ニュースは本当に必要か?

つぶやき

はじめに

私たちは普段ニュースなどのメディアを見て、世界の情勢や日本の政治の情報、また近所で起こった火災などの事故や事件、はては料理番組やアイドルのライブなどの情報や有名人のスキャンダルまで色々な情報を取得している。

世論などでは一部の知識人以外は基本的にニュースキャスターの発言の通りの情報を鵜呑みにし、(ほとんどの人は)世論をその方向に持っていこうとする。

ニュースを鵜呑みにしない人だってせいぜい他の類似したニュースを見るくらいであり、しっかりとニュースの内容について調べようとするのは一部の学者か野次馬かパパラッチかストーカーもしくは厄介オタクやユニコーン共くらいである。

幾多の本の中で「ニュースを鵜呑みにしてはいけない」などと言われているにもかかわらず、ほとんどの人はそれを鵜呑みにする。また「多面的に考える」だとか「客観的に捉える」だとか言ってはいるが世間に公開されているニュースはほとんどが同じような内容で、同じような感想であり、あまり見る意味が感じられない。

その上、そのような本の結論は結局「たくさんのニュースを見ましょう」くらいのものであり、具体的な解決策などはあまり載せられてないと感じる。

もはやネットニュースはコメント欄でレスバをするためだけにあるのではないかとも思ってしまう。

現在、ニュースやメディアなどの媒体を通さずに得られる情報というものはあまりにも少なく、信憑性に関してはかけらもないため、それを用いた情報の取得をお勧めするような人も、それについて語る人もいない。

その上でテレビの内容はほとんどがニュースである。どうなのだろう。

テレビって高いよね

私たちの考え方はほぼ全てがニュースという名のメディアによって構成されており、支配されており、洗脳されているのだ。

「私はニュースなんか信じない」「ニュースではこう言っているけど私は〜」などと喚く人たちもいるが、彼らも同様にニュースに洗脳されているのだ。なぜならニュースの存在がなければそのように喚くこともないからである。

学生たちの会話だって有名人や芸能人が言っていたことをそのまま反復しているだけのように感じる。自分の頭を働かせることもなく、有名人が言ったことをそのまま口から出すだけの彼らは、果たしてテープレコーダーと何が違うのであろうか。

ニュースとは広告である。もちろん出資者がおり、金稼ぎのための手段である。つまらない情報や人気のない情報、そして出資者の不利益となる情報は排除され、「特に多くの人が関心を持ったり、社会的に大きな影響をもたらす」と考えられたもののみがテレビの放送や新聞の記事となって世間へ提供されているのである。

また、出資者やニュースの会社が支援している団体もしくは個人の存在も欠かせなく、彼らにとって不利益となる情報は消され、彼らのライバルとなる団体などの否定的なニュースやゴシップニュースを見つけるとすぐに取り上げ、放映するという仕組みになっているようだ。

具体的には、インタビューをするにしても使い勝手がいい一部分だけを切り抜いて放映したり、本人以外の発言を流用したり、いい発言をしていなかったら”発言は得られませんでした”だとか”本人はノーコメントでした”などとして、悪いイメージを持たせようとしたり、酷いものだと一言一言を切り抜いて貼り付け、偽造したりもするようだ。

他にもやらせや何も知らない老人に一部の情報のみを与えていいように発言を引き出したり、人数の少なかったり関係者のみへのアンケートの円グラフやほとんどの人がまともに答えていないような棒グラフなどを作ったりもしているようだ。そしてしまいには反対意見の表の数を減らしたり無かったことにしたりして、賛成の割合を上げたりしている。昔のニュースキャスターたちは今の彼らに比べてずっと偏りのない客観的なニュースをあげていたものだが、今の彼らはスポンサーの起源をへつらうただの犬になってしまったようだ。

(彼らにも彼らの生活があるのだろうが、もっとやりようはあるはずである。というかこんな構造を作り上げたやつが悪い。誰かに責任を押し付けるのもおかしいのかもしれないのだが。)

2ch湘南ゴミ拾いオフ
過去に行われた韓国ゴリ押しを行うフジテレビへの抗議を目的としたゴミ拾いオフ会である。

↑フジテレビvs2chの民。私の友達の歴史の授業で一揆の内容を学んで、「この人たちは2chの人たちみたいに団結力のある人たちなんだな。2ch民の前世はこいつらなんじゃねえの」という発言にとても私は納得した。(別に彼らを批判しているわけではなく、団結力の部分についてのみ感心しているわけであることを私は示したい。どうすればいいか教えてくれ。)

正直テレビはたいして意味ないゴシップニュースなんかよりも面白い番組を増やして欲しいな、っておもった

これだけ悪いイメージを持たれているニュースを我らが毎日聞く必要はあるのだろうか。

ニュースの必要性や目的としては「情報を得る」とか「社会情勢を知る」とかの理由を挙げる人が多いようだが、仕事などで必要な人たちを除いて、彼らの行動心理は「自分より優れている人が落魄れる様を見たい」だとか「調子乗ってる奴らが叩かれるのが見たい」だとか「他の人が自分より圧倒的に下にいるのをみて自分の地位を確立する」とか自己肯定感を上げるなどの意図があるようである。

自分よりも圧倒的に優れている人が失敗するのを見て親近感を感じる人もいるようだが、たいていはざまぁされるのが見たいだけのようである。(ただの私の偏見なのかもしれないのだが。)

「同情とは他者を貶めて自己評価を得る底意を持ったものでしかない」だとか「自分よりも優れている人には同情しない」のようなことはニーチェさんもよく言ったものだが、本当にその通りである。人間は自分以外の人を下に見るのが好きなようである。どんなに優しい人だって無意識的に自分以外を下に見て、自分の平穏を手にしている。

※推しに関しては下に見ている人(孫のように感じている人など)と、神のように崇めている人がいる。と思われる。

私が思うに、現在のニュースやメディアの存在価値の半分くらいはこれが占めているのではなかろうか。天気や、自分の推しやアーティストの情報などは大切かもしれないのだが、正直事件ですら「近くに住む人への注意喚起」くらいしか意味はない。普段から気を付けている人はそのまま気をつけ、普段から気にしないひとはこれくらいじゃ変わらないので、たいして意味ないと思う。

政治とかゴシップニュースに関しては選挙などに関しても殆どの人はまともに見ず、「どうせこの人賄賂でももらってんだろ」と適当に作り上げた偏見やどうでもいい先入観によって糾弾する。

(そのせいで東京都知事選が荒れに荒れまくったが。)

本当に情報を必要としている人たちは、自分で手に入れるので、わざわざ大衆向けに対して内容のない偏向報道を見る必要なんかない。

芸能人のゴシップニュースに関してはいうまでもない。もちろん糾弾し、その人が叩かれるとすぐに「この人いつかやらかすと思ってた」などとその場で考えたとしか思えない口上を語り出すのだ。

それらはいつしか大した情報も知らず、聞きかじりの噂のみで暴言大会を開催するだけになってしまったのかもしれない。

アメリカや中国などのニュースなどは情報の信憑性については知らないが、個人的に日本に比べて圧倒的に明るいニュースが多いと感じられる。

日本もたいして意味のないニュースを流すくらいなら明るいニュースをたくさん流して欲しいものだ。

おわりに

私はニュースの存在はいらないと思う。正直今はSNSの方が使いやすいし。ネットの情報がいくら嘘が多いとはいえ、偏向報道のたっぷりなニュースと比べるとあまり変わらない気もする。東日本大震災の時はテレビよりもラジオやツイッターが役立ったようだ。

今は中高生でもスマホを持っているので、若者の意見も得やすくていいだろう。

ただニュースをいきなり無くすというのも難しいようだ。

たいへんなんだなっておもった。おわり。

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